仏教のことは右も左もわからないが。
読んで何となく感じたこと。
仏教においては時間の概念は認められず、ダルマの縁起が変化することで進む。
つまりコンピュータのシミュレーションに近い。
また、五感に関する話などはどう考えてもヴァラモン教を意識している。
両宗教ともにインド人の共通認識から生まれてきたから似ているのか。
それともヴァラモン教の構造を仏教が間借りしたのかよくわからない。
仏教のことはわからないので中論は全く持って私には意味不明だが。
なんとなく感じたことは。
つまり現代風に解釈すると計算速度無限大のコンピュータの上で世界が走っているとしたら、定数解以外意味がないと主張してるように感じた。
現代人が時間の経過だと考える世界計算の途中解は計算速度無限大なので意味がないとナーガールジュナは主張してるのではないか?
とりあえずわかったことは仏教は難しいので私には全く分からないということだけだった。
何せ中論では、何物も同一のものは無い。
何物も常在するものは無い。
このルールがダルマにまで適用されるとしたらどんな結論がでるのか?
多分そういうことを中論は窮理したのではないかとは思う。
書けば書くほどこいつ仏教分かってねえなと思われるだろうけど感想を書いてみる。
時間という概念を認めないことからくる色々な矛盾を、中論は縁起とダルマの改善で解決しようとした。
土台が間違ってるから理屈が立派でも中論は砂上の楼閣だとは思う。
まず、インド人は輪廻転生、世界の無限循環という観念の中で生きていた。
だからものが形を変えても世界からなくなることはない、表面上形を変えてもアートマンやブラフマンという本質は変わらないとインド人は考えた。
縁起がなくなればものがなくなるという仏教はこれと矛盾する。
これは解決されねばならない。
また物事や人が変化しつづけるということは縁起からはうまく説明できない。
ダルマの縁起は成立してる間は固定的である。
しからば変化するはずがない。
ダルマの中に変化(去ることと翻訳される)という要素があればそれは常にダルマの関係である縁起の中に存在する。
変化の一種である去ること(縁起がなくなること)がダルマの要素なら、それはダルマが縁起を持った瞬間に発動して縁起が存在できなくなるはずである。
これから去る物の中には、まだ去るという要素をダルマはもつことができない。
今去ってるものの中では、ダルマは自身を消去してしまうので去ることを要素として持てない。
去ったものの中にはもう去ることという要素はダルマの中には存在してない。
すると変化はどこに存在するのか?
これを解決しようとしたのかもしれない。
感想者
堀江 伸一
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